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堀江ベース



Karl Stengel solo exhibition

2025年6月6,7,8,13,14,15日           3PM-7PM

Karl Stengel 略歴
人類が誕生して以来、芸術家たちは洞窟画から彫刻、絵画、文学、音楽まで、あらゆる場所に想像力と創造
性の痕跡を残してきた。彼らは、自分の作品が、あるいは彼ら自身が、必ずしも賞賛の対象になるとは期待
していなかったが、自分の作品が観察者へのメッセージとして理解されることを望んでいた。、画家で画家
のカール・ステンゲルがその一人である。メッセージを理解するには、創作者としての芸術家についてより
深く知ることが必要だろう。芸術の創作者がまだ有名でないなら、作品を通して有名にするのが私たちの仕
事だ。そのために伝記が書かれるのである。しかし、多くの伝記は、記述されているアーティストに実際に
会ったことのない人々によって書かれ、さまざまな情報源からの情報に基づいている。たとえ正確であった
としても、読者には、どのような人生経験が、それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、そのアーテ
ィストに、自分自身や自分の天職を裏切らないために、特定の表現方法を選ばせたのかを読み解くという課
題が残る。それゆえ、ここには、約40年間ステンゲルのそばにいた人物によってまとめられた、個人的なメ
モを集めた簡単な伝記がある。
カール・ステンゲルは、自らをヨーロッパ人であると同時に、何よりも人類の一員であると考えていた。彼
は1925年9月18日、オーストリア=ハンガリー帝国の一部であったドナウ河畔の多民族都市ノヴィ・サドに
生まれた。過去に何度も支配を経験した彼の生まれた街は、その時点ではユーゴスラビアの一部であった
が、彼はまた、ハンガリーの伝統とのつながりを感じていた。市民の多くがハンガリー人で、ハンガリー語
が普通に話されていたにもかかわらず、カールは学校でセルビア語を学ばなければならなかった。父親はオ
ーストリアのワイン栽培農家の息子で、母親はユグノーとスロバキアの血を引いていた。実家にあった本の
ほとんどはハンガリー人作家のもので、そのなかには生涯を通じてステンゲルが大切にしていた作家、エン
ドレ・アディも含まれていた。高校を卒業する2年前、カールはハンガリー軍に徴兵され、すぐに第二次世
界大戦でソビエト軍と戦う戦場に身を置くことになった。1943年の終わり頃、彼と彼の連隊はソ連軍の捕虜
となり、戦争の残りの期間とその後の時間をシベリアの労働キャンプで過ごした。しかし、この数年間は、
おそらく彼の人生において最も形成的なものであっただろう。他者との絆を築き、仲間意識を持つことがで
きたことが、彼の命を救ったのである。収容所での生活を支配していた強制労働の合間を縫って、彼はどん
な紙切れにでもスケッチや絵を描きたいという抗いがたい衝動に駆られた。ある日、彼は兵舎の裏に隠れ
て、放置されたセメント袋に木炭でスケッチを始めた。ソ連の将校に見つかり、自分の肖像画を描くように
頼まれた。必要な材料が与えられると、彼は将校やバラックの囚人仲間の肖像画を描いた。事実上、カー
ル・シュテンゲルは収容所で最初の個展を開いたと言える。彼が収容所から早期に釈放されたのは、まさに
このような事情があったからかもしれない。かつて熱狂的なアスリートだったステンゲルは、重い肺感染症
にかかり、1947年に「家で死ぬ」ためにヨーロッパに戻ることを許された。しかし、ステンゲルは死ななか
った。食料が不足していたとはいえ、少なくとも馬肉は手に入り、健康にもよかった。
2年間の療養の後、彼は芸術家になるという夢を追い求めるために必要な教育を受ける決意をこれまで以上
に固めた。残念ながら、当時のソビエト共産党の方針では、彼の「ブルジョア」的な背景から、美術学校は
すぐに選択肢には入らなかった。彼はまず2年間工場で働き、高校卒業のための勉強を終えなければならな
かった。その後、ステンゲルはブルジョワ階級を受け入れてくれる唯一の学校であるブダペストの美術学校
に入学することができ、デッサン、絵画、モザイクアート、舞台美術など、生涯情熱を傾けてきた仕事によ
うやく打ち込むことができた。彼の教師の一人であるZ.ガックス教授は、すぐに彼の才能を見抜き、右手は
すでに「熟練」しすぎているから、左手でもっと描くように勧めた。彼が残した無数の絵の中には、LH(リ
ンケ・ハンド、「左手」の意)と記されたものがいくつかある。感じる目と見る手」について書いたのはゲ
ーテではなかったか。
1956年10月、ハンガリーでは共産党政権に対する民衆蜂起が起こり、20万人以上の人々が逃亡を余儀なくさ
れた。カール・シュテンゲルもその一人だった。教育を受け続けたいという願望に駆られた彼はミュンヘン
に渡り、芸術アカデミーに入学した。生活のために、シュテンゲルはあらゆる種類の仕事に就かなければな
らなかったが、小さな中古車を買うことができた。シュテンゲルは美術館を訪れ、古い巨匠たちから直接学
ぶことを望んだ。
学位取得後、ステンゲルは結婚し、2人の娘をもうけた。しかしすぐに、「普通の 」家庭生活を送ること
は、彼の願望、つまり芸術家でありたいという衝動とは相容れないことに気づいた。解決策を求めて、彼は
家族とともにミュンヘンを離れ、スペインの小さな漁村ラ・マリーナに移り住んだ。難破船の流木を素材に
ホルツビルダー(木の絵)を制作し、エルチェの小さなギャラリーに展示した。数年後、これらの作品はベ
ルリンのハウス・アム・リュツォウプラッツ・ギャラリーで展示され、カルロ・シュテパンによって「レリ
ーフ」と評された。イムレ・ケルテスが知っていたように、彼は「……私はもう一人の私」であり、常にカー
ル・ステンゲルであったからだ。ラ・マリーナで、彼はすぐに地元の漁師たちと親しくなり、漁師たちはし
ばしば彼を漁に連れ出した。車を所有していたのは彼だけだったので、彼らは土曜日の夕方、小さな売春宿
「イグレシア・プロテスタント」に連れて行ってくれるよう、しばしば彼に頼んだ。それはステンゲルにと
って新しい経験であり、あなたや私のような人間には馴染みのない光景だった。そこにいた男女を描いた彼
の絵のいくつかは、今でも残っている。
スペインでの滞在は、友人のクラウス・アイド教授から、ミュンヘンに戻って美術大学でデッサンと銅版画
を教えないかという誘いを受けたことで中断された。シュテンゲルはミュンヘンに戻り、小さな部屋を借り
た。夜中に目が覚めると、昼間に描いたものをもう一度見ることができた。時には、筆や鉛筆を手に取り、
ある線を強調したり、別の線を強調したりした。彼は銅版画に時間を割くことができるようになり、詩人で
あり劇作家であるイヴァン・ゴルと、彼と同じジョン・ラックランドであるジャン・サン・テールに捧げら
れ、彼にインスパイアされたシリーズを完成させることができた。1977年、ミュンヘン市はシュテンゲルを
Volkshochschuleの銅版画教授に任命した。シュテンゲルの講座に参加した人の多くは、彼の小さなアトリエ
で開かれたデッサンのレッスンにも通った。そのうちの一人は弁護士で、彼の作品に感銘を受け、ギャラリ
ーに自分の絵の展示依頼をするのは、まるで自分の注意を乞うかのような気恥ずかしさがあると告白した
後、自らギャラリーを開くことを決めた。
全世界の音楽、文学、政治的発展に呼応して、新しい表現方法を編み出そうとする彼の意欲は、単に内的な
欲求の結実というだけでなく、自由への欲求の結実でもあった!彼は、ヨハン・セバスティアン・バッハ、
ロベルト・シューマン、アントニン・ドヴォルザーク、セルゲイ・プロコフィエフの作曲や、ジョヴァン
ニ・ボッカチオ、ジュゼッペ・ウンガレッティ、ガブリエル・ガルシア・マルケス、ホルヘ・センプルン、
フェルナンド・ペソア、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ブレーズ・チェンドラール、アルベルト・カミュ、イ
ムレ・ケルテス、アレクサンドル・プーシキン、ルートヴィヒ・マルクーゼ、ゴットフリート・ベン、エー
リッヒ・フリード、ハンス・ユルゲン・ハイゼの著作から大きなインスピレーションを受けた。
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のために一連のカラードローイングを描き、チャールズ・
ブコウスキーの詩集のページには、友人に返信するように直接絵を描いた。シェイクスピアの『ハムレッ
ト』では、「To be or not to be(あるべきか、ないべきか)」という独り言に舞台画を捧げている。
アントニオ・タブッキの『トリスターノ・ディエス』の主人公は、多くのカラードローイングのインスピレ
ーションとなった。この特別なコレクションは、2013年にローマで開催された展覧会で発表された。アルフ
レード・M・バルバガッロは、この作品を「ステンゲルの主要なテーマをすべて包含する作品であり、彼の
色彩の力と情熱は、生命と無限への賛歌のようであり、慰めとしての芸術の布地と、彼の計り知れないほど
力強い内なる炎は……私たちに絵画の総合、非常に多様で価値のある完全にユニークで個人的なシステムを
見ることを可能にする......」と定義した。
ステンゲルはようやくアートフェアで作品を発表できるようになり、「彼の」ギャラリストと一緒に作品を
展示した。彼女は自由を求め、トスカーナのプラトマーニョの丘に質素な農家を購入した。ステンゲルはこ
こでもうひとつの小さなアトリエを見つけ、ドイツとイタリアを行き来しながら絵を描き、具象と抽象の間
を行き来するようになる。ステンゲルはイタリアで数々の展覧会を開催する中で、彼の作品や芸術的感性を
理解し、高く評価してくれる人々に出会い、多くの友人を作った。これらの人々の中には、クラウド・エイ
ドが彼のために書いたように、彼の著書やカタログの紹介文を書いた者もいる。特筆すべきは、アレッサン
ドロ・テンピ、イヴァン・テオバルデッリ、ジャンパオロ・トロッタで、彼らは常にステンゲルの作品に特
別な共感を示してきた。彼らは、哲学者ウンベルト・ガリンベルティの「……人間が動物的条件を克服し、
乗り越えたことを反映するものでなければ、芸術でさえも価値を持たない」という言葉を、それぞれのやり
方で共有している。ステンゲルとギャラリストは、自由への欲求を満たすための、あるいは満たすべき旅の
仲間でもあった。最初の大きな旅はポーランドのワルシャワで、ヘンリク・ムシアウォヴィッチは、彼と同
じように絵画と創作の内的必然の対象であった親愛なる友人を迎えた: シュテンゲルは1983年から84年に
かけて、ミュンヘンの彫刻通り(Skulpturen Straße)のために2つの大きな鉄の彫刻を制作していた。彼らは
トリエステからシチリア、サルデーニャとイタリア中を旅した。モロッコにも何度か行き、何か新しい試み
があるとイギリスやフランスに行き、またスペインやポルトガル、ルーマニアに戻った。また、ウズベキス
タンへも行き、サマルカンドのモザイク画を見た。リビアの砂漠と同じように、彼らはいつも彼に呼びかけ
ていた。最後の旅はコルシカ島だった。ステンゲルは、言葉を必要とせず、あらゆる場所で、あらゆる人々
と容易にコミュニケーションをとることができた。
しかし、肺の集中治療が必要なときが来た。「時間を無駄にすることはできない!時間を無駄にすることは
できない。そうして彼は、この世で最後の日を迎えるまで、絵を描き続け、自分自身や私たちとの対話を生
涯描き続けたのである。
カール・ステンゲルは2017年6月25日に亡くなった。ステンゲルはヘンリー・ジェイムズの言葉を翻案して
自らを表現したのかもしれない 「私は私にできることをした。私は私にできることをした。私の情熱は仕
事だった。あとは芸術と人生の狂気だ」。
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